私でございますか?
はい、私も例に漏れませず、主様をお慕いする者です。それでなくとも主様は、私にとって命の恩人でございますからね。
そうなのです、たかが箒に宿る妖に過ぎない私を、主様は身を挺してお助けに……あ、申し訳ございません、お見苦しい様を。いまだに私、あの夜を思うだけで覚えず涙が出てしまうのです。
主様と出逢った夜のことなら、忘れもしませんとも。
私が箒として棲みついていた家が火を出し、木と草から成る儚いこの身は燃え尽きようとしていたのです。
商いをするその家が借財を重ねて左前になっており、一人娘を売り飛ばしたとしても、どうにもならぬほど行き詰まっていることは、ずいぶん前から分かってはおりました。
ある日私は、家のあるじの呟きを聞いたのです。
「どうせ火の車なら、何もかも燃やしてしまおうか……」
低くかすれたあるじの声は、もはや死に取り憑かれた者のそれでした。もの言わぬ箒の姿のまま、私は、ああ旦那様は妻子を道連れに死のうとしている、と悟ったのでございます。
あるじはその夜、店と住まいに火を放ちました。
折からの風に煽られて、炎はさながら閻魔の息のように荒れ狂っておりました。壁も、襖も、柱も、すべて炎に呑まれていきます。
堪えがたいほどの熱さに炙られながら、おかみさんとお嬢さんはどうしただろう、と考えました。
そもそも私は、おかみさんが身篭った時、『箒は母木に通じる』と買い求められた安産の縁起物なのです。そして生まれたお嬢さんには、ですから、浅からぬ思い入れがございます。
かわいらしいお嬢さん、お優しいおかみさん、お二人とも死んでしまわれたのか。ならば私の務めも終わり、今を末期と灰になるのか……そう諦めかけた時でした。
「おぉーい、どこだあーっ! いるなら返事をしやがれー!!」
必死の声が、どこからか響いてきました。ついで、逆巻く炎を払うように、飛び込んできた小さな影。それが、主様だったのです。
火事場に突如現れた十歳かそこらの童に、私はただもう驚いて、応えることもできません。そんな私に、幼い主様は煤だらけの笑顔を向けてこう言ったのです。
「見つけた! 頼りねえ妖の気配がすると思ったら、お前だったんだな。どうせ逃げ遅れてめそめそしてやがるんだろうと思ったら、やっぱりだぜ」
「君、どこの子……どうして……危ないよ、焼け死んでしまう……」
「だから助けに来たんじゃねえか。さ、行くぞ。この家で命あるもんは、もうお前だけだ」
皆いなくなってしまったと知り、私の心はそこでついに折れました。
「いいんだよ、坊や……私はこの家とともに燃え尽きるんだよ……そういうさだめの命なんだ……」
何もかも失った私にとって、死への誘いは甘く、逆らいがたいものでした。もういい、と重ねた私の呟きを、主様の嚇怒熱罵が遮ったのでございます。
「馬鹿野郎っ!! そんなもんはさだめじゃねえ。楽に逃げてるだけだ!!」
「……え……で、でも……」
「生きれるうちに生きるのが勝ちだ! それともお前は負けてえのかっ?」
「いや、勝ちとか負けとか……そういうのではなくてね……」
「ぐだぐだ言ってんじゃねえよ、死にかけの爺ぃじゃあるめえし!」
だから死のうとしてるんだけど、という私の言葉は、またしても遮られました。
「ああもう、焦れってえ!」
主様は問答無用とばかりに私を抱え込み、焼け崩れる家の中を駆け出しました。
盛んな炎が私達に襲いかかります。あなや、という機に、主様の腕から放たれる紅蓮の炎が火事の炎を押し返します。そこでようやく、私はこの童が只者でないことを知ったのでした。
「……君は一体……」
「俺か? 俺は半妖だ。名前は藍丸っていう」
「半妖……藍丸……」
「お前、俺んちへ来い。行き場のねえ妖ひとりくらい、引き受けてやるからよ」
炎の中で主様の瞳はきらきらと光り、頬は牡丹の花のように紅く上気しておりました。
その笑顔、その命の耀きに私は一瞬で惹きつけられ、離れがたく……今もこうして、主様のおそばで日々安穏と暮らしているのでございます。
そんなこんなで主様の家に起居する身となり、桃箒と呼ばれて、はや幾年。
主様の家にはどんどん居候が増え、いつの間にやら藍丸一紋と呼ばれるほどの勢い。一つ目小僧や私のような力の弱い妖は、まあ、お情けで頭数に入れていただいているようなものですが。
初めのうちこそ『藍丸が厄介な拾い物を』と眉をひそめていた雷王様、呼びかけに返事もしてくれなかった弧白様ですが、今では一応の身内と認めてくれているようです。
ですから私は、たった一つ得手とする料理賄いでもって、主様達にご恩返しをしております。丹精尽くしてお作りしたお菜を主様が旨そうに平らげてくださる、それこそが今の私の歓びなのでございます。
今日も活きのよい魚を蛟女に獲ってきてもらい、茗荷や茄子といった旬の野菜と取り合わせ、お膳を賑々しく飾ります。
「さあ、皆さん。ご飯の仕度ができましたよー」
あの夜、炎に身を任せていたら得られなかった充足です。
巡り逢うことのなかった仲間です。
何もかもが、主様のおかげなのでございます。
そうした感謝の思いを、毎日のお菜に込めているのです。
ところがどうしたことでしょう。主様の箸がすすんでいません。主様、もしやお加減でも悪いのでしょうか? 滅多にないことでございます。妖、いやさ、鬼の霍乱でございます。
「主様? どうして召し上がらないのです?」
「うん……いや、まあな……」
「もしや私のお菜、気に入りませんか?」
「いや……悪い。俺ぁどうも、この茗荷っていうのが苦手でよ……」
何と! 私としたことが、幾年もおそばにいる主様のお嫌いなものをお膳に上げてしまったとは!
何という不覚、何という失態!
「相すみません主様! 今すぐ作り直しますから!」
「待て、桃箒」
慌てふためいてお膳を下げようとする私を、雷王様が止めます。雷王様はむっつりと腕組みをして、主様を睨みつけています。
「藍丸。俺は、心尽くしの食い物を残すような躾をした覚えはないぞ」
雷王様、顔が怖いです。
屋敷の中で雷を鳴らすのは勘弁してほしいのです。
「だってよ、雷王。茗荷ってなあ、草みてえな葱みてえな、妙な匂いと歯ざわりで……」
「好き嫌いは許さん。四の五の言わずに、黙って喰え」
「……分かったよ……」
主様はしぶしぶと、茗荷の切れ端を口に含みました。途端、お可哀相に、主様の口元が歪みます。
その時でした。
黙ってやりとりを聞いていた弧白様が、主様の顔を引き寄せ、そのまま口付けてしまったのです。
「……!」
「……!」
一同、唖然でございました。
その間にも主様と弧白様の唇は深く重なり、あまつさえ、弧白様の舌は主様の口の中を這い回っているらしく。目の遣り場に困る口吸いは暫く続き、やがて、主様の唇は解放されました。
「嫌いなものは仕方がない。こうして私が代わりに喰べてあげようよ、ね、藍丸?」
「へへ。すまねえな、弧白。助かるぜ」
「いいんだよ。かわいいお前のためだもの」
主様も弧白様も、当たり前のようにお話をしています。
当たり前……なのでしょうかね? 私も何だかよく分からなくなってまいりました。
……いいえ。
やっぱり当たり前などではないようです。
だってだって、すぐそばで雷の音がどろどろと轟いて……。
「……弧白、貴様ぁーっ!!」
耳をつんざく音とともに、畳が吹き飛びます。爆風に煽られながら、私は、お膳を持って右往左往。
一つ目小僧が尻をからげて逃げ出します。夜通し屋敷の修繕をすること必定となった、家哭の恨めしげな鳴き声も聞こえてきます。
「煩いね、小姑みたいに青筋立てて。そんなに口惜しいならお前もやってみればいい。藍丸の唇は甘いよ?」
「できるか! 許すかーっ!!」
元凶である弧白様は、よせばいいのに雷王様を煽ります。そのたび屋敷は、凄まじく壊れていくのです。
雷、雷、また雷。
私の横で、蛟女がそっと呟きます。
「これがほんとの雷親父かしらねえ……」
うまい、蛟女。
褒めてやりたいところですが、飛び散る家財を避けるのに忙しくてままなりません。
そんな騒ぎの中、主様といえば、ひとり悠然と茶を啜っておいでです。
主様は、本当に素晴らしい。
この若さでありながら、山の如く動かざるお心の持ち主です。
それでこそ一紋を率いるお方だと、私は座布団で身を守りつつ感じ入ります。
「おいおい、お前ら、いい加減にしやがれ。不味い茗荷がますます不味くならあ」
ことほどかように、主様は素晴らしいお方なのですが、やっぱり茗荷はお嫌いのようでございます。
了
文:中条ローザ