湯島ノ洋館デ妖ヲ見タルコト_2015時雨誕生SS



 出逢ってから幾度目か、今日6月11日を迎えて五本刀頭領・時雨は、またひとつ齢を重ねた。歴代公方やら高僧やら、畏れ多きかな天朝様でなくとも、此の世に生を享けた日を寿ぐのが今様の風習「誕生日祝い」だそうで、巡り逢えた奇跡を神仏に感謝したい京一郎と時雨にとって、互いの生まれ日は格別に意味深い。
 幾年経とうが蜜月の京一郎と時雨に気を利かせてか、それとも、あてられる阿呆らしさを回避してかは知らねども、臣はじめ五本刀の男衆は今宵、頭領を湯島へ送り出した。
 誰の耳目を憚らずともいい、ふたりきりの一夜だ。
 夏至近い時分とて日も長く、まだ西の空に暮色残る刻からカァテンを引き回して籠り、湯浴みの後も夜着を用いず素裸で過ごす。放埒のままに戯れているうち、どうにも切羽詰まった心身状態となり、床だの長椅子だのでは無理な姿勢も取れぬからと縺れ合うようにして階上の寝室へなだれ込んだのも、まだ宵の口。それから巫山雲雨の営みに我を忘れ、あらかた愉悦を味わい尽くした頃合に、時計は重々しく鳴った。

【京一郎】
「……日付、変わっちゃったね」
【時雨】
「そうだな」
【京一郎】
「誕生日、終わっちゃったね」
【時雨】
「そうだな」

 けだるく火照った身体を重ねながら、その日を見送る。名残惜しいのは確かだが、つつがない歳月に感慨もわく。来年も、そのまた先も、ずっとずっと、こうして過ごせるようにと祈る心はふたり同じだ。いつまでも共にあるようにと。


【京一郎】
「喉渇いたろ、時雨。一階からサイダァ取ってきてあげる」
【時雨】
「サイダァ? あるのか?
【京一郎】
「うん。昨日、氷屋さんに氷を運んでもらって、冷やしてあるんだ。特別だよ」

 行き届いた気遣いに込み上げるものをぐっとこらえて黙り込む時雨へ、京一郎は、口付けと「待ってて」という言葉をくれ、腕からするりと抜け出ていく。扉の向こうへ消えた背中、その仄白い残像を瞼に甦らせつつ、時雨は事後の甘やかさに浸った。
 幸せだ、と時雨は呟く。
 つい今しがた過ぎた日はただの節目に過ぎぬけれど、それでも、生まれてきてこそである。ここまで命永らえてこそである。この幸福を、京一郎を、いつまでも離すまい。

【京一郎】
「時雨」

 名を呼ばれて眼を開ける。京一郎が枕元に立っている。はて、いつの間に台所から戻ったか。気配を感じ取れなかったのは、歯止めのきかなかった行為に疲れ、眠りかけていたからか。それにしても間近に見る京一郎の微笑みの、なんと艶かしいことだろう。昼間の清廉・徳操ぶりとの差異といったら、たまらない。この蠱惑が己だけのものだと思った途端、時雨の情動は容易く再燃した。

【時雨】
「……京一郎」
【京一郎】
「好きだよ、時雨。ねえ――」

 しなやかな腕が時雨の首に絡んでくる。頬と頬が触れる。耳朶に囁き、時雨が欲しい、と。時雨は乱れそうになる息を整え、眼を閉じた。細い腰に手を添え、寝台へ引き倒す。腹の下に組み敷いて身動きを封じる。口付けを待つように綻ぶ唇へ唇を寄せ、一言。

【時雨】
「おまえ、偽者だな」

 ぱん、と中空で破裂音がした。結界の裂ける音だ。

【京一郎】
「時雨っ!」

 直後、部屋の扉が荒々しく開き、サイダァの瓶とコップを手にしたままの正真正銘の京一郎が見たものは――寝台の上で折り重なる時雨と「己そっくりの何者か」であった。

【京一郎】
「な……な……」
【時雨】
「待てっ、京一郎、誤解するな! こいつはおまえに化けた妖だっ!」

 喝破されて観念したか、妖は時雨の拘束を逃れたと見るや、宙にとんぼを切って立つ。現れたのは人ならざる有尾の姿、さらには少女めいたすこぶるつきの美貌の持ち主であって、不興げに鼻を鳴らして「その通り。我が名は右京、伏見に住まいする者です」と名乗りをあげた。

【時雨】
「おまえ……妖狐だな。西国の妖が、なんだって東下ってまで俺を誑かしに来やがった?」
【右京】
「べつに意趣遺恨があったわけじゃありません。水鏡で見ているうち、大層な恩知らずの色惚けっぷりに少しばかり腹が煮えましたものでね」

 仔細も経緯も分からぬ京一郎は、机にサイダァとコップを置き、息をひそめて右京なる妖狐と時雨の応酬を見守るばかりである。

【右京】
「ついでに言い添えておきますと、狐族が巫覡にいくさを仕掛けているわけでもありません。そう――貴方へのささやかな厭がらせ、とでも申しあげておきましょうか」
【時雨】
「さっぱりわからん。恩知らずだと? 俺が狐族に借りでもあるっていうのか」
【右京】
「大ありです。郷里から出奔した貴方の道中を護ったのは、我が一族ですからね」
【時雨】
「……は?」
【右京】
「思い出してごらんなさい。貴方が根尾村から帝都まで歩き通す間、山中で日暮れた時もあったはず。心細い闇路を照らしていたのは?」
【時雨】
「……狐火」
【右京】
「飢えと疲れで行き倒れそうになった時、行く先々で貴方が身を休めたのは?」
【時雨】
「……だがそれは、全国でも稲荷神社が群を抜いて多いからであって」
【右京】
「数の問題ではありません。貴方は貴方の知らぬうちに我々の社に導かれ、迎え入れられていたのですよ。供物を喰らう罰当たりにも目を瞑りました」

 時雨がなんともばつの悪そうな表情を浮かべる。供えものの盗み喰いは図星なのだ。つまり右京の言い分は、きっちり筋が通っているらしい。しかし如何なるわけあって、気紛れな獣神が十やそこらの浮浪児の道中守護をしたのだろう。途惑う京一郎と時雨の前で、右京は大仰な溜息をついてみせた。

【右京】
「まったく、おめでたい人です。己のために捧げられた祈念も知らず、この有様」
【時雨】
「ますますわからん。一体どういうことだ?」
【右京】
「突然姿を消した息子の無事を願って、村の稲荷にお百度を踏んだ女がいたのですよ。貴方のご母堂です」

 はっとなる。
 根尾村に時雨が残してきた家族。今は亡き母親の必死の祈りを聞き入れ、狐族が時雨を護ったというのか。

【時雨】
「……かあちゃんが……?」
【右京】
「親子の逆縁は切ない、我が子の早死には哀しいと。せめて自分より永生きするように、とね」
【時雨】
「――……」
【右京】
「貴方は今年、ご母堂の歳を超えました。我々の務めもおしまいです」

 京一郎と時雨は、返事もできない。十数年の時を超えた母親と狐族の約束の重さ、有り難さに、身の震える思いだった。半神半妖の眷属の思いがけない情深さに、胸をうたれた。

【京一郎】
「――時雨……」

 京一郎は、俯いて唇を噛む時雨に手を差し伸べる。抱き寄せた身体は温かい。不遇の中にあっても、常に護られ祝福されてきた時雨の命の証であった。
 寄り添う二人に、右京は再び大きな溜息をつき、呆れ果てた声音で言い継ぐ。

【右京】
「確かに生きてこそではありますけどね。なにも知らずいい気になって戯れている様子に、つい悪戯を仕掛けてやりたくなりました」
【京一郎】
「……ふふ。それで結界を張って、僕に化けて?」

 時雨がまんまと騙されて誘惑に乗れば、諍いの種を蒔けるとでも思ったのだろう。けれど時雨は化かしを見抜いた。とことん面白くないと、右京の顔に書いてある。こうした底意地の悪さも、獣神、いや妖ならではである。

【京一郎】
「時雨が僕を見間違うはずがないのに」
【右京】
「――ふん」

 ふたりの絆の強さに、右京はますます癇を立てたらしい。窓を開け、去りぎわに捨て台詞。

【右京】
「ご母堂の願い、もうひとつ――子がまた良き子に恵まれますようにとね。どうやらそれは叶わぬようです、お生憎様!」

 妖狐は朧月の空に舞い、消えた。
 あとに残るは、抱き合うふたり。どことなく茫洋としたままの時雨の髪を、京一郎は親のように撫で続ける。

【京一郎】
「ねえ、時雨」
【時雨】
「……ん?」
【京一郎】
「どうして僕じゃないって分かった?」

 右京にはああ言ったが、化かし上手の狐の業をこの暗がりでよくぞ見抜けたものだと思う。

【時雨】
「んー……背丈が、違った」
【京一郎】
「そうなんだ? どのくらい?」
【時雨】
「半寸かそこら、かな」

 たったそれだけ。
 それでも時雨には充分だったのだ。
 だが京一郎とて同じだ。たとえ匙ひとつ分の目方の違いでも、時雨を見分けられる。それほどに、互いのすべてを知り尽くしているのだからして。よって今、口にせずとも考えていることが互いにわかる。
 明日はどこか、近在の稲荷神社に詣でよう。ふたりで、十数年に及ぶ加護の礼をするのだ。それから、一日遅れの時雨の誕生日の報告をする。またやっかみ混じりの悪戯を仕掛けられるかもしれないが、それも冥加のうちであろう。

【京一郎】
「お誕生日おめでとう」
【時雨】
「うん」
【京一郎】
「生きていてくれてありがとう」
【時雨】
「うん」

 開け放した窓から、かすかに狐の声。ふたりはじっと、耳傾ける――。


大正メビウスライン
文:中条ローザ