珍しく千家が溜息をついたので、京一郎は、読みさしの本の頁から顔をあげた。
今日は御前会議ご臨席あそばす天子様の供奉とかで、普段に増して行き届いた軍服姿、襟の徽章も付け終えて、
出掛ける刻を待つばかりのはずである。その千家がうんざり顔で放り出したのは、一本の赤い組紐だ。
千家が何を試み、そして諦めたのかは、やや乱れた髪を見て知れた。

「ご自分で結べないんですか?」
「……うるさい」

これもまた珍しく、不機嫌もあらわな答え。
不可能なことなど何一つないとばかりに尊大な笑みを絶やさず、たまに見せる怒りの表情さえ、
どこか作為めく千家だというのに。今は、掛け値なしの決まり悪さに仏頂面だ。
京一郎は本を閉じ、千家の背後へ歩み寄った。

「私がやって差し上げます」
「……なんだと?」

肩越しに振り向いた千家の眉根が寄るほどに、京一郎の胸に込み上げる可笑しさは増す。
が、ここで不用意に笑みを見せては、きっと千家は完全に臍を曲げるだろう。
せいぜい真顔を装いつつ、京一郎は紐を手に取った。

「髪を扱うのは得意なんです。実家にいた時、妹の髪を結ってやっていたのは私ですから」

いかにも面白くなさげに京一郎を見詰めていた千家は、ふん、と鼻で息をついて正面に向き直った。

「……痛くするなよ」

それを貴方が言うか、とあやうく返しそうになる。
京一郎の膚をさんざん噛んだり引っ掻いたり、時には切創を刻み、
それどころかもっと痛みを伴う愛撫を施して嬉しげなこの男が。まったく、大した王様である。
しかし京一郎は気を取り直し、射干玉の夜を宿したが如き髪の、まずは流れを整えた。

「結うにはこつがあるんです。髪の全部を強く引っ詰めればいいというわけではなくて」

妹の櫻子の髪と千家の髪は、同じように素直で艶のある見た目ながら手触りは随分と異なる。
櫻子の方は日向の子猫のように柔らかく、触れればほんのり温かい。
対して千家の方はと言えば、しなやかだがこしがあり、ひんやりとしていた。
どちらが扱いやすいかと言えば千家の髪で、これなら難なく纏められそうだった。
まして今、結ぶために使うのは組紐で、
滑りやすい繻子のりぼんを使えと駄々を捏ねられた櫻子の時よりよほど結びやすい。

「紐もただ髪に巻き付けるのではなくて、初めに固結び目を作っておくんです。
 そうして巻き付けながら結び目に引っ掛けていくようにすれば、時間が経っても弛みません」
「……」

千家は答えを返さず、なされるがままにじっとしている。
取り敢えずは、京一郎のやりように不満がないということか――いや。
どうも、そうではないらしい。
千家の肩や背中、そして首、全身から妙に力が抜けていない。
しかも、緊張していること自体を京一郎に気取られまいとしている気配さえ窺える。
何故だろうと考えて、京一郎は、今度こそ破顔した。
つまり千家は、慣れていないのだ。髪であれどこであれ、己が身体の一部を他者に委ねるということに。
千家はいつでも、他者の心身を思うがままにするばかりの王様であったから。
だからきっと不本意で、それがために幼げな無言を通していると。

「……ふふ……っ」
「何が可笑しい」
「いいえ、何も。それよりほら、できましたよ。どこも痛くないでしょう?」
「……ああ」

肩に手を添えて振り向かせ、仕上がりを確かめる。その間も、千家は不興げな顔のままだ。
京一郎はさらなる悪戯心に煽られた。何故なら、千家をからかってやれる機会など滅多にない。

「はい。今日も一日、かわいい、きれい」

ぽんぽんと額を軽く撫でながら囁く。櫻子の髪結いの仕上げの習慣だったまじないだ。
これを聞くと、櫻子は決まって、花がほころぶような笑みを見せてくれたものだが。

「――……っ!」

千家は笑わなかった。それどころか、いっそう険しく眉を寄せている。
京一郎としては、まったく、これぞ、してやったりなのである。

「さあ、もう時間です。行ってらっしゃい、伊織」

追い打ちをかけられた態の千家は、苦虫を噛み潰したような顔でマントと帽子を取る。
部屋を出て行きざま、京一郎を睨みつけて言うことには。

「……覚えていろ、京一郎」

覚えているとも。
今の拗ねた千家の顔、おそらく一生、忘れない――。

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